2010年11月17日水曜日

ドブロブニクのボタン!


皆さん こんにちは!

きょうは、『ドブロブニクのボタン』と言われる、金銀の細工のお話です。
(500年も前から!のデザインです。)

前のお話の続きとして、読んでいただけましたら、幸いです。
夜の総督邸(右)

ドブロブニクは、16世紀をピークに大変繁栄しましたが、クロアチアの沿岸をさらに南下すると、モンテネグロ(黒い山の意)、アルバニア(ケルト系の古い人種が作った国)、ギリシャ(皆さんご存知の!)と続きます。

で、現在のアルバニアあたりに、ドブロブニクは一部領土を持っていたらしく、金鉱などの採掘も行なわれ、金細工師達が、金、銀の細工物を盛んに手がけ、すばらしい作品を数多く生み出しておりました。『黄金のドブロブニク』とでも言う、輝かしい時代です。

アトリエでの制作風景と作品
金のドブロブニクのボタン

もともと『ドブロブニクのボタン』とは、ドブロブニクの結婚する女性に結納のような形で贈られていた、直径3センチはある、大きな球形のペンダントトップだったとの事。

結婚した女性達は、一様に首から”80センチのチェーン”でこの『ボタン』を下げていたらしく、ドブロブニクの北、新港の先のお金持ちの住んでいた村などでは『金製』のペンダントも流行していたようですが、通常はもう少し地味に『いぶし銀』や『銀』が使われていました。

と、ここ迄は、ゴールドスミス(金細工師)の皆さんのお話。ではなぜペンダントトップが『ボタン』と言われているのかしら???と思いますよね。

中世の時代に、マントを留めたりする一番目立つところの装身具として作られたのじゃあない?とは地元の方の話し。よそでシンプルだったボタンも、このドブロブニクでは、ジュエリーのようにゴールドスミス達の技術を競うような、すばらしい金銀の細工物になるのも、おおいに頷けます。そして、ならば、奥様がだんな様のマントのボタンの一部を身につけるのも、合点がいくものです。

現在、国家資格をもつ、数少ない職人さんのみが、この『世界遺産的デザイン!』とも言える、『ドブロブニクのボタン』を、制作する資格があります。

また、ドブロブニクのみならず、クロアチアのアドリア海沿いの諸都市、リエカ、ザダール、スプリット、そして内陸のザグレブでも、都市の大小を問わず、ありとあらゆるジュエリーショップのウインドーには、この『ドブロブニクのボタン』の新旧バージョンが、必ずと言っていいほど並んでいます。地域によって、微妙にデザインが違ったり。楽しいですよ。田舎の町のジュエリーショップには、たまに、う〜ん、これはアンティーク?それともホコリがついただけ??ってのも有りますが!(悪しからず、、)

ペンダントトップももう少し小ぶりにした物を、あるいはイヤリングや指輪に応用されたものも作られています。そして現代では、既婚未婚の女性を問わず、ジェリーショップで『どれが似合う?』と迷いながら、彼と、あるいはお友達と選んでは、このアンティークデザインのジュエリーを、気軽に身につけています。彼女達にとっては、ドブロブニクの輝かしい時代のすてきな遺産、そして、クロアチアそのもののアイデンティティーなのでしょうね。でも色々可愛いのですよ。ほんの一部ですが、、、


いぶし銀のイヤリングと指輪 イヤリング各種
   
ペンダントトップ各種

応用ドブロブニクボタン、イヤリングとネックレスのセット

ところで、ドブロブニク共和国(当時)は、アドリア海の出口に位置するため、多くの船員もここで乗り込み、食料、水も、ここから船積みされていました。逆もまたしかり。海外からの輸入物が、わんさか陸揚げされました。よって、ドブロブニクには、非常に多くの船に関係する仕事をする、旦那様や恋人を持つ女性がいた訳です。

船で長い航海に出るご主人を持つ女性達は、荒海での航海が無事で、どうか元気で帰ってきてほしい、と、身につけていたジュエリーを教会に寄進し、祈りました。その中には、アドリア海産の赤い珊瑚や、文字通り*『アドリア海の真珠』で作られた指輪、イヤリングなどもありました。ドブロブニクの教会や美術館でごらんになれますよ。
*ドブロブニクが『アドリア海の真珠』と言われているのは、ご存知ですよね。

そんな歴史や環境を考えながら、この『ボタン』を見ると、、、、
女性達の思いをのせて、5世紀もの間延々と、同じデザインが受け継がれているなんて、ロマンを感じるジュエリーではありませんか!

夜の小オノフリオの噴水(静かな水の音、聞こえませんか?)


ところで、一年中ドブロブニクの旧市街は、いろんなイベントが行なわれている、と〜っても楽しい所です!

例えば、、、”グラサン”の”サンタ”さんの群れ!が、マシーンをブイブイ言わせながら、メインストリートを駆け抜けるところに ”遭遇〜!”な〜んてことも。そろそろですね、クリスマス。

今度は何のお話にしましょうか、、、
何しろ、ではまた近いうちに!

ブイ、ブイ、ブイ〜ン!何十台も来ましたが、ちょっとカメラ出すのが遅かった

2010年11月14日日曜日

閑話休題 優しい海をみてほしくって!


ニンの夕暮れ
マカルスカリビエラの断崖

プリモシュテン、世界遺産になるか?!
釣り船の休息
バンジージャ〜ンプ?!
夕暮れの釣り船
カモメも休息

ドブロブニクの巨大?帆船 続き

噴水の彫刻       ドブロブニク全景        

皆さん、こんにちは。ドブロブニク、つづきです。

右の写真を見て下さい。港の艀(はしけ)のところに、3っつのアーチがみえません?実はこれが帆船のドックだったのだそう。

現在ここは、ちょっと高級レストラン。装飾は船にちなんだものばかりで、船の骨組みにテーブルが組み込まれていたり、ドブロブニクならではの一人ではとても食べきれない、ボリューム満点の『ドブロブニク プレート』という、と〜っても新鮮な数種の魚、イカ、貝などのグリルの盛り合わせなどを出してくれます。

ここのテラスから、『ドブロブニク リビエラ』と言われる断崖に張り付く家々やのホテル、遠くの島や入り江に点々と灯る明かりと、旧港から渡る潮風を感じながら、これまた美味しいクロアチアワインのグラスを片手に、新鮮な海の幸をほおばる、の図は、雰囲気サイコー、至福のひととき!


話しが脱線しましたが、当時、帆船の建造は完全非公開で行なわれ、完成するまでブロックでおおわれた中で進められ、進水式ではじめて、そのブロックが壊されて、お披露目となったそうな。


他国には、まねしようとしても、まねの出来ない独自の技術だったそうで、出来たドブロブニクは、まさに地中海の覇者。大人気になった船には注文が殺到。十年は軽く待たなきゃ、ドブロブニク製の船は手に入らなかったと、なにしろ大繁盛だったそうな。

それが為に、ドブロブニクはと〜っても稼ぎました。そして、地中海にはドブロブニクの船しか浮かんでいない!と言わしめたそうな。

この帆船は、イタリアのラグーザで、『巨大商船』の意の言葉として、『ARGOSY (アルゴスィー)』という言葉が、ドブロブニク産の船をさして、生まれてしまうのです。そして初めて地中海を抜け、大西洋はイギリスの港に到着すると、後の海洋大国イギリスの人々も、
ヒャー
なんと大きな船なんだ!


しかも、超かっこいい!しかも断面が台形のこいつには、荷物をたっくさん積めるではないか!しかもしかも、それが為か、なんと安定の良い船や〜っ!と、口々に、巨大なふねじゃ〜、と叫んだそうな。以来、英語の言葉としても『ARGOSY (アルゴスィー)』が定着するのです!
古の衣装をまとうドブロブニクの若者

ウィキペディアからの抜粋を載せます。結構知られていません!16世紀におこった事です。
It is derived from the 16th century city Ragusa[3] (now Dubrovnik, in Croatia), a major shipping power of the day and entered the language through the Italian ragusea, meaning a Ragusan ship. それは16世紀の市ラグーザ[3](現在ドブロブニククロアチアの))に由来します、当時の大型輸送の原動力となって、イタリアのraguseaを通して言語に入りました、『Ragusanの船』を意味して、。

いかがですか?英語の辞書をひいてみてください。私も見つけましたよ。

で、16世紀をピークに、徐々に他の地域も、大型船の必要性に迫られ、開発が進み、一斉を風靡したドブロブニクの帆船の歴史が、徐々に終わりに近づいていきます。
  
ピレ門               階段の続く路地       

ドブロブニクでは、実は100年に一回くらいの頻度で、大地震が来ていました。また、大火も起き、船の建造技術の資料は失われます。木製の大型船を造る技術者もどんどん減り、ついに船は消えるのですが、焼け残ったいくつかの絵画の中に、この船を手にする聖人や、金銀の細工の施された宝物の中に、この船をかたどった物が残っており、近年観光用に再現されます。

ちなみに、半日チャーターで、40万くらいだったかしら?弟さんの結婚式では、この船を借り切って船上のパーティーをしたわ、なんて言うドブロブニク在住の知人の話し。海洋都市ドブロブニクの末裔の人々は、今も船と共に生きています!

次回はドブロブニクの貴金属工芸

2010年11月13日土曜日

ドブロブニクの巨大?帆船


皆さん、こんにちは。今日はドブロブニクの、巨大帆船のおはなしです。
下の写真、みて下さいね。先のブログでは、全部が写らない写真でした。”分解”しました!
なんと、この帆船が、ドブロブニクを、中世の世界で、名だたる独立都市国家にしたのです!
それというのも、北にはジェノバ、ベネチアと、海洋大国で知られる強敵が控えていましたが、特にベネチアは、アドリア海北端の都市ですから、どうしたってアドリア海を南下しないと、地中海、そして大西洋には出られない訳です。

そのアドリア海の『出口』に、で〜んとドブロブニクが、しかも強大な力を持って待ち構えていたら、やはり『目の上のたん瘤』、邪魔だった訳ですね。やっつけたいのが人情。クロアチアのアドリア海沿岸諸都市は、北からすこしずつベネチアに征服されていきます。ザダールが13世紀についにベネチアの手に落ちて以降、どんどん南下して、ついにドブロブニクの手前迄、征服されちゃいます。

しかし、ドブロブニクは頭が良かった。ヒューマンだった。そしてお金もあった。なぜ?

世界遺産ドブロブニク!なんと言っても城壁!

こんにちは、皆さん。クロアチアを語るに、ドブロブニクを抜きにしては、始まりませんね。今日からは、世界遺産で日本でも大変有名になった、クロアチア共和国の南端の町、ドブロブニクのお話をすこしずつ。もういろんなところでこんな写真、見てますよね!

ドブロブニクは、クロアチアのアドリア海の海岸線を南に南にたどっていくと、もうちょっとでモンテネグロに入る、まさに国境付近に有ります。ベネチアの古文書には、『ラグーサ』と言う名前で、ドブロブニクがしばしば登場します。13世紀から16、7世紀の事のようです。

この二つの都市国家には、共通点が有ります。それは、ベネチアはゲルマン民族に侵入され、
陸地から追いやられた人々が、アドリア海の島や潟(ラグーン)に逃げてきて作られた町。ベニスがその地盤に、数知れない多くの杭(くい)を打ち込んだ上に築きあげられた町なのは、きっと皆様もご存知でしょう。
ドブロブニクも、ローマ時代初期には、ただの岩礁だったところ。内陸からのスラブ人がやってきて、元々もう少し南の入り江の町(現在のツァウタット)に住んでいたラテン系の人々は、この新しい外敵から逃げて、攻撃されにくい岩礁に渡ります。これが現在のドブロブニクの始まり。

ドブロブニクの住民は、少しずつ地盤を整備し、階段を作り、家を建てて、すみかを築いていきましたが、食料や水の確保が大変でした。どうしたって敵にとられた陸側に行かないと、手に入らない。そこで、スラブ系の人々と、次第に仲良しの外交作戦で、12世紀に隔てていた水路を埋め立て、双方の町を合併させます。そしてその周りを城壁でぐるりとかこったのです。
これは、それぞれにとって、トルコという共通の敵に対する防衛の為でした。トルコの侵入を防ぐ為に、どんどん石を積んでは、城壁を補強していきます。当時こんな『おふれ』が出たそうです。

『ドブロブニクの門をくぐる者、例外なく、おのが体に見合った石を持って来るべし!』

13世紀から17世紀の間、絶え間なく補強されていったこの城壁は、現在あまりにも有名ですが、つまり、当時は、子供は小石、女性はもうちょっと大きいの。巨漢の(そういえば、K−1の *ミルコ プロコップもクロアチア人です!)者はそれなりに!持てる限りの巨大な石を持ってきては、城壁に使ってくんねえ! って、この魅力溢れる町に貢献したわけですね!

ご存知のように、ドブロブニクはこのような時代をへて、2重の城壁を巡らせていくことになります。広いところは幅16メーター。その下には、幾フロアーもある要塞が作られ、先の独立戦争では、ここにお年寄りや子供、女性を中心に、遠くに逃げ切れないドブロブニクの住民が、かなり長い事避難しておりました。銃弾の雨をくぐって、若者たちが、食料や水を、決死の覚悟で運び込んだと言います。もちろん、要塞は大砲の弾にもびくともせず、難民を保護しました!

ところで、私たちのタイトル、『アドリアの真珠』は、ドブロブニクが『アドリア海の真珠』と言われている所から、あやかって付けた名前です!

さあ、今日はこの辺で。
次回は、下の写真の素敵〜!な、総木造の巨大帆船。一体なんなのだあ?




2010年11月9日火曜日

モルチッチ3 最終編

さて、モルチッチのお話も、いよいよ最後になります。2つのレジェンドのお話です。





最初のレジェンドは16世紀にさかのぼります。

リエカの背後のグロブニック平原に当時東の脅威だったトルコが迫ってきます。掠奪と放たれる炎に、町中に恐怖が広がります。隣接する町々、セーニュの周辺からは、血なまぐさい戦いの報告があがってきます。男たちは、城壁の棟に集まり、力の限り戦いますが、どこからの援護もなく、女子供は棟のシェルターに身を寄せひたすら、天から石が降りそそぎ、この敵を埋めてしまい、我らの命をつなぎたまえと、神のご加護を祈るのみでした。 日が経って、ついに勇気あるズリンスキーの弓から、神の手に導かれた矢が、神殿に潜むトルコのパシャの頭を射抜きます! 戦闘のリーダーの死を知ったトルコ兵は、グロブニック平野の八方に散り散りになりますが、天はリエカの女性達の祈りに答え、石の雨を降らせ、トルコ兵を埋め尽くします。リエカの男たちは、彼らに勝利をもたらし、町と人々を救った神への祈りに深く感銘し、 この勝利の記念に、奥様方へ モルチッチのイヤリングを特注して贈ったのです。

もう一つのレジェンドはペリェサッツに伝わるお話です。

一人のイタリア人男爵夫人が、黒人の女の子の召使いを置きましたが、誠心誠意彼女の面倒をみたこの召使いに、自由な身分を与え、尽くしてくれた彼女の思い出に、彼女に似せてイヤリングを作らせたとな。


19世紀後半のリエカでは、有名なモルチッチ金細工師らと、彼らの素晴らしいクラフトマンシップにより、この様なジュエリー生産の一大拠点になり、リエカは” モロ(先のモルチッチの呼ばれ方)のリエカ”と呼ばれ、リエカ固有のジュエリーになっていくのです。そしてイヤリングから始まったモルチッチは、リング、ブローチ、ネックレス、ピンス等々に加工され、沿岸部を南下、ザダール、スプリット、ダルマチアの島々、内陸のボスニアへとその流行が波及し、モルチッチのデザインを極めた ジガンテ社 により、1879年のパリ万国博覧会に出展されます。またモレットジュエラーと呼ばれる、モルチッチ宝石商を多数排出します。


リエカ市民の真のアイデンティティーを探す時、劇作家ネデリコ ファブリオの ”命の礼拝” で紹介された通り、リエカはモルチッチによりよみがえる、との意味で、疑い様のないリエカのシンボルとされるのです。第二次世界大戦後、モルチッチの製作は一時停滞しますが、おばあちゃんから孫に伝えられたこのジュエリーは、戦後の若い世代から再び脚光を浴び、1991年、正式にリエカのマスコットとして迎えられ、リエカのメインストリートを華やかにする宝石商のウインドーを、再び飾る事になるのです。そして2月のカーニバルには、モルチッチに紛争した市民が、町の歩行者天国、コルゾ通りを歩きます。


リエカや、その北西の静かな高級保養地オパティアに行かれましたら、あるいはクロアチアの他の地域でも、宝石店のウインドーを覗いてみて下さい。今度はあなたにとって 市民権を持っったモルチッチが、きっと”あなたを守りますよ!”と語りかけてくれるのではないでしょうか?!以上モルチッチでした!

ところで、現地からこんなお話を伝えてくれているのが、リエカのすてきな友人タニヤちゃんです。読んで下さった皆様は、左上の写真に、なぜ?と思われた事でしょう。
タニヤちゃんのオフィスは、すごく可愛く、夢のあるおばあちゃま社長マリヤさんを中心に、すってきな仲間達が集っています。カーニバルの時に、はしゃいでとった写真が、なんとなんと、『マウス』付きの『コンピューター』の『画面』に、映し出されて!いるんです!

















ちなみに、このオフィスの他の写真も、公開しちゃいます。夢と、ユーモアのセンス一杯の、楽しいオフィス!こんな感じですから、みんなで協力しながら、不可能を可能にするむちゃむちゃ頼りがいのある仕事っぷり!いつもメールには“Have a GRATE day!"って書いてきますから、超ボジティブにならざるを得ないのです!























ではみなさん、Have a GRATE day!
また近いうちに!

2010年11月8日月曜日

モルチッチ2


先日のモルチッチのお話、もう少しおつきあいください。写真はちょっとぼけてますが、少々違うバージョンも出ております。 
17、18世紀、当時、オリエントから海洋大国ベネチア経由でヨーロッパに持ち込まれた、香辛料、香水、布地、洋服やのエキゾティズム、オリエント趣味に、さっそく魅了されたリッチな貴族階級のベネチア人が、それらの象徴として、豪華なターバン、衣装を身にまとわせた召使いを邸宅や別荘に置き、サロンに出入りする客人方をおもてなしする、という行為が、流行の先端、ステイタスになります。そしてこれまた流行に敏感なベネチアの金細工師達を、即座に宝飾品制作に駆り立て、豪華なターバンと衣装の黒人風のモルチッチ(当初ベネチアではモレットと呼ばれたようです)が、ブローチやイヤリング、ネックレス、指輪等に仕立てられ、瞬く間にサロンに出入りする上流階級の奥方達の間に広まります。

その庶民バージョンが、リエカの女性達にもてはやされるのに時間はかかりませんでした。さらにモルチッチは、クロアチア北部の諸都市、島々(クルク、パグ、ラブ、ツェレス島等々)にまで大流行いたします。また、イヤリングの右側一方だけをつけるという装い方が、(はじめはお母さんが大事な息子に、また海で活躍する水夫や漁師の恋人や奥方から渡されたのでしょう)男性達の間にも流行し、さらにベネチア由来の社会的ステイタスと経済パワーの象徴として、沿岸に住む人々のあいだに、“神人同形説”的な魔除けの肌守りとして、なくてはならない物になっていきます。(この間、呼び方は、モリ、モルチ、モルチェキ、等、島や地域によって少しずつ呼び方が変わり、ついに現在のモルチッチにまで変化します。)ちなみに、リエカとベネチアは車のルートで235キロ、国境でややこしい事がなければ!2時間50分足らずで走れる距離です。

これにはリエカを支配し海洋大国で経済流通先進国だった当時のベネチア、クロアチア第1の港町リエカ、そして2つのレジェンドが関係いたします。このつづきは、また後日!

2010年11月4日木曜日


2010年11月2日火曜日

モルチッチ!

先のブログから、時間が経ってしまいました。
”モルチッチ”のお話です。

クロアチア第一の港町、リエカ市は、クロアチアの北部、アドリア海を北に突き当たった所、19世紀に保養地として発展した、オパティアから、湾を13キロ程南東に回ったところに位置します。現在の町並みは、長く支配されたオーストリアの影響濃く、町中の歩行者天国を縁取る建物も、港近くのオペラハウスも、まさにハプスブルグ家当時の威厳ある建物ばかり。町を見下ろすトルサットの丘には奇跡のマリア教会、そしてヨーロッパでも屈指のカーニバルの街。2月には市をあげて、盛大なカーニバルが行われ、大変なにぎわいになります。このリエカ市が1991年、市のシンボル、公式マスコットに認定したのがこのモルチッチ。そしてモルチッチに扮した市民がカーニバルの主役でもあります。
頭に豪華な白いターバン、立派な飾りの衣装、不思議な名前と黒人風の容貌。どうしてもクロアチアと結びつかないこのジュエリーは、リエカの歴史的、地理的な環境がおおいに関係しています。


先のブログから、時間が経ってしまいました。
モルチッチのお話です。
クロアチア第一の港町、リエカ市は、クロアチアの北部、19世紀に保養地として発展した、アドリア海北部のオパティアから、湾を13キロ南東に回ったところにあります。オーストリアの影響濃く、町中の歩行者天国を縁取る建物も、港近くのオペラハウスも、まさにハプスブルグ家当時の威厳ある建物。またヨーロッパでも屈指のカーニバルの街。2月には市をあげて、カーニバルが行われます。
このリエカ市が1991年、市の公式マスコットに認定したのがこのモルチッチ。そしてモルチッチに扮した市民がカーニバルの主役でもあります。
頭に赤と豪華な織りのターバン、不思議な名前と黒人風の容貌。どうしてもクロアチアと結びつかないこの装身具には、幾つかの謂れがありますが、その一つをご紹介いたします。それにはリエカの地理的な環境もおおいに関係しています。
18世紀に、富裕層のベネチア人(この辺り、1466年以後はハプスブルク家の支配下に入り、その後半世紀後、アドリア海で最も強力な海洋国家ヴェネツィア共和国が、短い期間リエカー当時はフィウメーを支配。その後2度フィウメを掠奪し、市民の多くにベネチア系の富裕層が定着、政治をた。イタリア迄100キロのサロンに


オーストリア、ドイツ、ルーマニア、ハンガリー、北はスエーデン等々の王侯貴族の