2010年12月4日土曜日

もう少しドブロブニク


町の外の断崖に立つ家々とホテル


こんにちは みなさん。

クロアチアのドブロブニクについて、もう少しお伝えしたい事が有ります。

下の写真はドブロブニク共和国の昔の紋章です。Libertas 自由!と書かれてます。

ドブロブニクでは、どこの国にも属さない自由こそ、一番価値のあるもの、との信条でした。


下の写真のような断崖の小島の上に、住居を築いて、この共和国を守っていくのは、知恵と政治的手腕と、アドリア海の出入り口である地理的メリットを十分生かしてこそ、でした。中世の、周辺に大国が迫る中、独立が保てる事が住民の悲願でした。
どんな政治をしていたのかが、注目です。
先のブログに、旧総督邸の写真をのせましたが、こちらの中庭に入ると、階段が上っています。上りきった総督の部屋の入り口には、『全ては共和国の為に』と刻まれています。総督は毎月チェンジされました!しかも総督として、この共和国に使える為、その一ヶ月間は、家族とも会わず、外出は公務のみ、ほぼ缶詰状態で仕事をしたそうな。腐敗政治を厳しく嫌った訳です。
総督邸入り口の柱群

ドブロブニクには、食べられない者はいない!と言われました。この総督邸の一部に、生活に困った人々への食事をサービスする『トビラ』が有り、暖かいスープを頂けました。
町の路地を歩くと、目立たないところに『赤ちゃんポスト』もありました(上の写真のちょうど暗くなった辺りに。下の写真はメインストリート。この最初の路地を右に入ったあたりです)。つい数年前に日本でも話題になりましたが、色々な事情で子供を育てられない人が、修道院の呼び鈴を鳴らすと、周辺の皆が窓をしめ、顔を見られずに、子供を6歳迄預かってもらえました。もし引き取る事がどうしても出来ない場合、その子供達は、近くの農家に引き取られました。
こんな通り、あんな通り、歩き回っても、直径300メートルなら大丈夫!
朝方の通り。可愛い電気自動車で配達!

別の通りは、『井戸通り』等と呼ばれ、道の至る所にマンホールのようなものがみられますが、この下は雨水をためておいたところ。そして教会のような建物を入ると、中には巨大な穴があいていました。ここには『穀物貯蔵庫』があり、兵糧攻めに有っても、住民全てが数年食べていけるほどの穀物がストックされていたとの事。

メインゲートのピレ門の一部には土管のようなものが通っているのが見られます。これは、新港の先のわき水を、数キロの土管で、直接町中にひいて、ピレ門前の噴水からは、なんとなんと『飲料水』が常時流れていました!オノフリオの噴水と言われますが、これを作ったイタリア技師の名前がついています。(下は夜の幻想的なオノフリオの噴水)

港に目を移すと、多くの船荷や船員が入ってきたドブロブニクでは、ペスト等の危険から身を守るため、今で言う『検疫所』ももうけていました。はじめは少々離れた島に、そしてその後は港の先に倉庫のような一角がみられますが、そちらに船が到着して『40日間』、人も物も留め置かれました。現在も検疫所の事を『クアランティーヌ』と申しますが、40日!の意味です。
上の写真の右端に3棟ほど見える長屋風屋根がクアランティーヌの建物でした。
現在、季節の良い時には、中でフォルクロールの踊りや演奏が!

ところで、写真の断崖には、現在海水浴客の為のカフェ等が置かれていますが、その昔は『穴1』『穴2』なんていう、そのものズバリの名前がつけられ、頑強な城壁の一部にあけた穴から、ゴミを外に出していたそうな!
現在はもちろん『穴』をくぐって、ゴミのない美しい海岸に出て行ける場所に変わっています!
上の写真は海側と城壁内部から見た『穴1』『穴2』です。
戦争でもびくともしなかった、ミンチェッタの要塞が、山側にそそり立ちます。


ところで、1991年に独立を果たしたクロアチアですが、独立戦争が行なわれて、かれこれ20年くらいになろうとしています。このドブロブニクは、セルビア共和国に属していたモンテネグロまでの国境に、一番近いクロアチアの都市でした。それゆえ、国境を越えてやってきたセルビアを中心とする旧ユーゴ軍に、突然雨霰のような爆撃を受けました。ドブロブニクにゆかりの深い、海にたずさわる職業の人々や商人、旅人の守護聖人ニコラの記念日、12月6日の朝の事でした。

クロアチアは、1980年代がピークで、ヨーロッパ中から多くのバケーション客がやってきていました。クロアチアは、特にその沿岸部が、大変有名な保養地でした。しかし、この独立戦争で、ぼこぼこになった都市がいくつか有り、その一つがドブロブニクだったのですね。斜面の家々も、ドブロブニクの町中も、屋根も道も家も船も、ことごとく爆撃されました。

大聖堂。中央の柱の間や、聖人ブラホの右脇には、独立戦争の傷跡

要塞に避難する人々には、若者が水や食料を、雨霰と降る爆撃の中をかいくぐって!届けたそうな。スポンザ宮殿内部には、当時の写真が展示されています。まるで廃墟。復興が信じられません。その中には時計塔の前で、愛するドブロブニクの破壊される様子を映像にと、カメラをまわし続けた青年が、爆撃に遭った瞬間まで撮影され続けた貴重なものも。

ユネスコの世界遺産だったドブロブニクは、軍を置く事が出来なかったので、応戦に立ち上がった青年達は、みな自らボランティアで武器を取ったそうな。彼らは背後のスルジ山の、ナポレオン時代の要塞に集結しますが、2千対2万くらいの勢いの軍にあっけなく命を奪われます。もちろん町中でも。廃墟をみて途方に暮れる老人、焼け落ちた自宅の家具を呆然と見る婦人。彼らはこの戦争で50年後戻りしてしまった気がすると言います。

人々は逃げ惑い、目前に落ちる爆弾を見ながら、城壁の真下に身をひそめたり、自宅の地下の貯蔵室に逃げ込んで、難を逃れた、などという方々もおられますが、多くは大急ぎで荷物をまとめ、親戚の家に疎開したり、隣国イタリアなどへの出稼ぎ、宛のない人々はドブロブニクの北側のホテルのたくさんある岬地域で、ホテルの部屋を開放してもらっての避難生活だったようです。それらのホテルが、避難民を無事家に帰し、再開、外国のお客様を受け入れられるように、リノベーションしたのが、つい5、6年前のことです。
各ゲートに掲げられた、爆撃の被害状況。各国語!
拡大1-殆どに印が!
拡大2-メインストリートの黒丸にご注目
砲撃の英文説明(黒三角--屋根直撃、赤塗り--焼け落ちた建物、白抜き三角--榴散弾による屋根の被害、黒丸--石畳直撃)


そんなドブロブニクが、壊れた彫刻の破片をかき集め、古文書を調べて、400年も石切り場から、同じ石を切り出してきては、建物や彫刻や、敷石の補修が行なわれ、破壊された屋根には、オレンジの真新しい瓦が置かれ、驚異的な復興を遂げました。以前にもまして、また多くの観光客を迎えられるようになりました。夏には毎日!クルーズ船が何艘も旧港の沖合、新港に、巨大なビルを倒したように停泊しています。


たくさん書きましたが、ドブロブニクのみならず、クロアチアの魅力はまだまだイ〜ッパイあります!
次回はちょっとドブロブニクから少々離れて、他の地域の話しもしましょうね。

それでは皆様、see you soon!




2010年12月2日木曜日