2010年11月13日土曜日

世界遺産ドブロブニク!なんと言っても城壁!

こんにちは、皆さん。クロアチアを語るに、ドブロブニクを抜きにしては、始まりませんね。今日からは、世界遺産で日本でも大変有名になった、クロアチア共和国の南端の町、ドブロブニクのお話をすこしずつ。もういろんなところでこんな写真、見てますよね!

ドブロブニクは、クロアチアのアドリア海の海岸線を南に南にたどっていくと、もうちょっとでモンテネグロに入る、まさに国境付近に有ります。ベネチアの古文書には、『ラグーサ』と言う名前で、ドブロブニクがしばしば登場します。13世紀から16、7世紀の事のようです。

この二つの都市国家には、共通点が有ります。それは、ベネチアはゲルマン民族に侵入され、
陸地から追いやられた人々が、アドリア海の島や潟(ラグーン)に逃げてきて作られた町。ベニスがその地盤に、数知れない多くの杭(くい)を打ち込んだ上に築きあげられた町なのは、きっと皆様もご存知でしょう。
ドブロブニクも、ローマ時代初期には、ただの岩礁だったところ。内陸からのスラブ人がやってきて、元々もう少し南の入り江の町(現在のツァウタット)に住んでいたラテン系の人々は、この新しい外敵から逃げて、攻撃されにくい岩礁に渡ります。これが現在のドブロブニクの始まり。

ドブロブニクの住民は、少しずつ地盤を整備し、階段を作り、家を建てて、すみかを築いていきましたが、食料や水の確保が大変でした。どうしたって敵にとられた陸側に行かないと、手に入らない。そこで、スラブ系の人々と、次第に仲良しの外交作戦で、12世紀に隔てていた水路を埋め立て、双方の町を合併させます。そしてその周りを城壁でぐるりとかこったのです。
これは、それぞれにとって、トルコという共通の敵に対する防衛の為でした。トルコの侵入を防ぐ為に、どんどん石を積んでは、城壁を補強していきます。当時こんな『おふれ』が出たそうです。

『ドブロブニクの門をくぐる者、例外なく、おのが体に見合った石を持って来るべし!』

13世紀から17世紀の間、絶え間なく補強されていったこの城壁は、現在あまりにも有名ですが、つまり、当時は、子供は小石、女性はもうちょっと大きいの。巨漢の(そういえば、K−1の *ミルコ プロコップもクロアチア人です!)者はそれなりに!持てる限りの巨大な石を持ってきては、城壁に使ってくんねえ! って、この魅力溢れる町に貢献したわけですね!

ご存知のように、ドブロブニクはこのような時代をへて、2重の城壁を巡らせていくことになります。広いところは幅16メーター。その下には、幾フロアーもある要塞が作られ、先の独立戦争では、ここにお年寄りや子供、女性を中心に、遠くに逃げ切れないドブロブニクの住民が、かなり長い事避難しておりました。銃弾の雨をくぐって、若者たちが、食料や水を、決死の覚悟で運び込んだと言います。もちろん、要塞は大砲の弾にもびくともせず、難民を保護しました!

ところで、私たちのタイトル、『アドリアの真珠』は、ドブロブニクが『アドリア海の真珠』と言われている所から、あやかって付けた名前です!

さあ、今日はこの辺で。
次回は、下の写真の素敵〜!な、総木造の巨大帆船。一体なんなのだあ?




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